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ストア・ウオッチング(35)

天然醸造が武器---
逆境を越えた
生き残り戦略。

石井味噌店(味噌製造・販売)

 「去年は冷夏だったでしょ。すると、『ちょっと、おたくの味喀、味が落ち
たんじゃないですか』ってお客さんからクレームが2件入りました」

 石井味噌店のく<信州三年味噌>は、今では珍しくなってしまった天然醸造
の純白然食品。添加物や薬品などいっさい含まないので、それだけ自然条件
に敏感なのだ。

 その天然の味を守っているのが五代目社長の石井基さん(62)である。

 「すごいもんだね。そこまでうちの味噌の味をわかって下さるお客さんが
いらっしゃるんだから。これはもう味噌屋にとっては本当に有難いことです」


生糸から味噌へ先祖がえり


 石井味噌店は創業明治元年の老舖だが、ただ先祖の衣鉢(いはつ)を継いできたとい
うわけではない。「うちは波潤万丈の家なんですよ」と石井さんの語るとお
り、時代の波をかぶって実に変化に富んだ歴史を刻んできたのである。

 初代の石井伴左衛門元忠は真田幸村の流れをくむ武士だったが、明治維新
の折、野に下って今の松本市伊勢町で味噌屋を始めた。

二代目伴左衛門祐助は、父の店を継いだものの、「味噌屋は眠ったような
商売だから」と副業として生糸に手を染めるのである。土蔵の中で蚕を飼
い、繭から生糸をとる。

 明治の殖産興業の波に乗って(株)石井製糸所は急速に伸び、三代目の時代
には生糸を本業として現在地に移り、当時五万坪あった敷地には五百人を超
える従業員がいたという。

 石井さんの父である四代目謙三が県内の上田蚕糸(さんし)専門学校を卒業して家
を継いだ頃には、味噌作りは従業員の食事のためだけにやっているような状態だった。

 ところが、昭和六年十二月、生糸相場が暴落。翌年に金融恐慌が起きるに
到って、石井製糸所は急速に没落してしまった。

 さらに昭和十三年、化学繊維のはしりとしてスフ(ステープルーファイバ
ー)が出現し、繊維業界に大変化が起こったのである。

 「こんな相場師みたいな事業をして
いてはいけない、と先々代が言い遺して逝ったのを機に生糸から手をひき、
合資会社石井味噌店として再出発をはかったのが昭和十四年のことです」

 石井製糸所の株主四十七人に五万坪の敷地のほとんどを分けてようやく会
社を解散。結局残ったのは、味噌蔵一つと三千坪の土地のみだった。

 味噌店の看板を再び掲げたものの、先代は蚕糸が専門で味噌のことはわか
らない。そのうち杜氏(とうじ)も出征してしまい、本格的な味噌作りは戦後、それ
も杜氏が復員してきた昭和二十三年まで待たねばならなかった。

 戦後、長野県の味噌製造業者が集まって”信州味噌”というネーミングの
団体登録をとり、その名は全国に知られ、業界全体は順調に伸びていった。
それとともに天然醸造から速醸(そくじよう)へと日本の味噌作りは急激な転換を遂げていた。

 米からこうじを作り、煮上けた大豆にそのこうじと塩を加え、一年、二年
と白自然醗酵を待つ。これが天然醸造と呼ばれるものである。その期間を縮め
るために添加物を入れ、熱を加えて人工的に作るのが速醸である。二年かけ
るところを二十日で仕上けてしまう。

戦後出遅れたためにかつての得意先を失い、さらに速醸にも乗り遅れ、石
井味噌店の未来は閉ざされていた。


速醸か天然か---迷いを超えて


 昭和二十九年、石井さんは立教大学を卒業、横浜と東京の卸商で二年間働
いたのち、松本に戻ってきた。家を継ぐ前に「他人の所でメシを喰ってこい」
という先代の言葉にしたがってのことである。

 「それから数年間は迷いの時期でしたね」

 <信州三年味噌>と白ヌキされた文字が美しい紺の半纏(はんてん)を着た石井さん
は、当時の心境をそう語る。

 昔ながらの味噌作りに励む一方で、速醸にも挑戦してみる。しかし、これ
だと自信のもてる味にならない。いくら速く出来上がるといっても味を落と
してしまっては意味がない。

 かといって、新進の業者たちが速醸を武器に市場を攻めてくる。このまま
ではこちらの足もとまで危うくなってしまう。

生き残りの道を何とか見つけなければ・・・・。石井さんはあせっていた。


観光ブームに的をしぼり


 そんなある日のこと、道で出会った
近所のおばあさんが石井さんに言った、この前のお味噌はおいしかったねえ---。

 「はっとして店に戻り、中島のおばあちゃんがおいしいと言ってくれたう
ちの味噌がどれなのか調べてみたんです。そうしたら、それが天然醸造の三
年味噌だった。やっぱり最良の材料で作った天然味味噌だったんです。その
時、迷いが消えました」

 速醸をやめ、天然醸造の<信州三年味噌>一本に的を絞ったのである。

 ちょうどその頃、近くにスーパーが初めて開店した。駆けつけた石井さん
の目にとびこんできたのは、きれいなクリーム色をした各社の速醸味膾の数々。

 「私はこんな芸術的な味噌は作れないと再認識しました」

 大豆たんぱくは長く寝かせるほど色が黒くなる。きれいな色はソルビン酸
や脱色剤を使った速醸の証しなのだ。

 見ばえやコストから白分の味噌はスーパー向けではない。そこで石井さん
が思いついたのが、観光みやげだった。松本近辺にはたくさんの温泉があ
る。その旅館で売ったらどうだろう。
味噌を観光みやげにしたメーカーは、まだない。プラスチックではない小さ
な椹(さわら)の木の樽に入った信州の手作り天然醸造味噌・・・・・。

 中身が一流なら貼付するラベルのグ
レードも上げたい。石井さんは東京へ飛び、人を介して書家の松本芳萃氏に
「三年味噌 石井味噌」と書いてもらった。

 「ためしに知り合いの旅館に置いてもらったら、その日の夕方に追加注文
がきました。三ヵ月前に買っておいたダットサンに乗せて、嬉し泣きに泣き
ながら持っていきましたよ」

 その後、長野国体の折、静岡の選手たちが団体バスで買いに来た。それを
きっかけに貸ガレージにしていた敷地に観光バス駐車場を設置。味噌作りの
見学ルートを作って休憩所で味噌汁をサービス。その横に即売所を設けた。

 現在、直径三メートルほどもある四トン半入りの杉の木の桶八十本に味噌
が静かに眠る。全国の百貨店からの誘いを断って従業員十人ほどの直販体
制。東京での修業を終えて戻った後継ぎの次男とともに、やがては年商五億
円をめざす。


(フリージャーナリスト 吉原敦子)
慶應義塾大学文学部卒業。月刊誌・週刊誌
に評論・ルポを執筆。著書に『スカートをはい
た高級官僚』(かんき出版)、『本に逢いた
い!』(時事通信社)などがある。


●合資会社 石井味噌店
〒390
長野県松本市埋橋一-八-一
電話0263(32)0534